エル・エスパシオ・デ・ラ・ペリクラ

「第一の敵」

El Enemigo Principal)
<ケチュア語原題 Jatun Auk'a>
ホルヘ・サンヒネス監督、1974年、白黒、35ミリ、110分
1974年 チェコ、カルロビバリ映画祭水晶賞
1975年 ポルトガル、フィゲラ・ダ・フォス映画祭最優秀映画賞
1975年 スペイン、コスタ・デル・ソル映画祭最優秀映画賞

場所:キノ・キュッヘ
日時:2003年6月22日(日)

解説:太田昌国 
報告 濱村篤

 ウカマウを読み直すVol.1−『第一の敵』に見られるエスニシティーと暴力

 「ウカマウを読み直す−『第一の敵』に見られるエスニシティーと暴力」と題された企画が、2003年6月22日(日)にキノ・キュッヘでおこなわれた。企画では、まず、ボリビアの映画製作集団ウカマウによる映画『第一の敵』(1974年)が最初に上映された。観客は、50人程度で立ち見の出る満席であった。映画上映後、太田昌国さん(シネマテーク・インディアス 民族問題研究)に主にお話しいたただいて、その後に話を会場に来ている人たちに開いてディスカッションをおこなった。太田昌国さんの話の間に中野真紀子さんからコメントを頂いた。進行役は、濱村篤(このレジュメの報告者)。以下、太田昌国さんの話を中心にして要約しておく。

 ●簡単な年表
 ボリビアの映画製作集団ウカマウの4本目の長編作品にあたる『第一の敵』は、ペルーで撮影されている。故国ボリビアにおける政治的な情勢が原因となって、ウカマウは、1973年までの3年間をアジェンデ政権下のチリに亡命して過ごしている。1973年9月11日にチリで合衆国の支援を受けたピノチェットがアジェンデ政権を軍事クーデターで倒すと、外国人で目立った活動をしていたウカマウにも逮捕命令が下り、ウカマウは、アンデスを越えてペルーに亡命した。亡命先で撮影された映画『第一の敵』のロケ地は、映画の冒頭に出てきたマチュピチュの遺跡のあるクスコの近くの村であった。ウカマウは、ペルーに亡命してから一年の間で『第一の敵』を作ったわけだから、この時期かなり集中的な仕事をしたことになる。

 ●『第一の敵』のストーリーの構成に関与している現実の三つの物語
 −後にセンデロ・ルミノソが活動の拠点とした場所であるアヤクーチョを拠点としていた、1965年に敗北した民族解放軍というゲリラ闘争がペルーであった。この闘争の指導部が獄中で書いた総括文書に『1965年ペルーのゲリラの経験』と題されている文書がある。都市部の人間が、反帝国主義闘争の全国的な展開を求めて農村根拠地を作りに農村部におもむくわけであるが、都市から出かける人間の側からすると、どういうコミュニケーションを取りながら一緒にできるのかが当時の大きなテーマとなった。しかし、ペルーやボリビアでは農村部では先住民族がその多数を占めており、上述の総括文書では、ペルーの農村の現実の分析において認識が甘かった点と、先住民族の社会と自分たちの間にある溝に無自覚であった点が指摘されている。
 −1960年代前半に、大衆的な土地占拠という形を取った、クスコ近くであった農民運動。
 −ウカマウのサンヒネスたちにとって故国であるボリビアでの経験。エルネスト・チェ・ゲバラがボリビアで銃殺されて亡くなったのが、『第一の敵』が作られる7年前の1967年であった。エルネスト・チェ・ゲバラは、人口の半数以上が先住民族で占められているボリビアにおいて、先住民族の言葉であるアイマラ語・ケチュア語・グアラニー語を知ることなくゲリラ根拠地を築こうとしたが、周辺の住民との関係性がまったく確立されないまま敗北していった。この過程もまた、映画『第一の敵』の下敷きとされている。

 ●映画製作時のラテンアメリカの政治的な背景
 1950年代後半のキューバ革命の実例は、多くのラテンアメリカの青年にしてみれば、アメリカ帝国主義と、これに結託した政権を打倒するには、少数の決意した人間がいれば、これが起爆剤になり得るかもしれないという考え方を与えた。しかし、その後、キューバの教訓に懲りたアメリカ軍がすべての国に介入して、現地の政府軍を政治的・経済的に支援したために、60年代以降は、キューバの場合とは異なる情勢が作り出されていった。

 ●映画『第一の敵』に見られる二重言語状況
 テレビの旅番組では、南米が取り扱われるときには、典型的には、高いアンデスの山々、神秘的なマチュピチュの遺跡、カラフルなインディオスの衣裳が出てくるが、そこに登場してくるインディオスは、常に寡黙であり、黙して語らない。これは、そこに撮る人間と撮られる人間との間にきちんとした関係が生じていないからである。その意味では、まだミニシアターがほとんど存在していない1980年に映画『第一の敵』が日本で始めて公開されたときには、先住民の女性が甲高い声でまくしたてる映像、しかもその言葉が支配言語のスペイン語ではなくて、ケチュア語であったことは衝撃的であった。映画『第一の敵』に見られるこのような二重言語状況について指摘した後で、太田昌国さんは、後のウカマウの映画のつながりで見えてくる『第一の敵』の見え方として、次のように語っている。
 「この段階は、サンヒネスたちの撮り方っていうのは、先住民のあり方から、何かが生まれえると考え始めていたとは思いますが、映画の物語の作り方、それからカメラの視線が、まだインディオス社会に内在的に入っていくというよりは、自分が越境がかなわない人間として、白人の側あるいはメスティーソの側にいて、そこから、同じ社会を構成している先住民のひとたちとどういうコミュニケーションの形を作り上げることができるのかということに腐心していた。」

 ●太田昌国さんによる映画『第一の敵』の位置付け
 「この映画は、製作者としても、何が正しいのかを言おうとしている映画というよりは、だからゲリラが正しいとか、農民が正しいとか、老人の語り部が正しいとか、彼らなりの位置付けがあるのだと思うけれど、全部を投げ出していると思うのですね。ペルーのひとつのゲリラ闘争、ペルーのひとつの土地占拠闘争の経験、サンヒネスたちが考えたボリビアのゲバラたちの闘争の敗北から何を教訓として受け取るのか、その三つを渾然一体としたまま投げ出している。」

 ●「気持ちの悪い」映画『第一の敵』
 映画『第一の敵』の中では、例えば、弁護士なしの即決の人民裁判といった、見方によると「気持ちの悪い」シーンがあるが、現在のようないわゆる「グローバリゼーション」が進展する中では、世界の中で既に周辺化されている部分がさらに周辺化される。こうした事態の中では、映画に出てくるような「気持ちの悪い」シーンが現実のものとなる恐れがあるのではないかと、進行役の濱村が指摘した後で、こうした意味も含めて後の議論のための契機として、中野真紀子さんに映画から受けた印象をうかがった。
 映画が作られた当時の背景を太田昌国さんから色々うかがうと、映画が違って見えてくるところもあると保留した上で、中野真紀子さんは、次のように語っている。
 「最初にひとりの男が個人として訴えに行って、殺されてしまうと。周りの村人たちは集団で訴えに行って、地主さんをとっつかまえて、自分たちの掟で裁いたらどうなんだっていうか、もうこの段階でこいつは死刑だって出てるんですね。なぜか、そこで、いや裁判所に連れて行こうとなるんです。えっと、私は思いましたけれども、そこから先の展開は、寓話ですから、非常に都合よく話が進んでゆくわけですよね。大きな街の裁判所に行ったらば、村人たちの訴えは却下されて、逆に村人たちは拘束されると。で、村人たちは、自分たちはどうしていいかわからない無力感に浸っていたところに、ゲリラが来て、そのゲリラと一緒になって、もっと広い意味の闘争に目ざめていって、もう一度闘う力を得るというか。(...)その後で人民裁判で裁いた者が真の正義の遂行だっていうふうに言われると、今の段階でそういうふうに出されると、やっぱりちょっと、ん、というところがある。(...)この映画で全然描かれていないものっていうのは、村人たちの中の本来持っていた正義というのはいったいどうなってしまったのか、どうして最初のところで消えてしまったのかというところではないか。」

 ●センデロ・ルミノソ ペルーの「輝ける道」
 ウカマウを今読み直すということで、進行役の濱村が、後にペルーで生まれることになるセンデロ・ルミノソが持つ恐ろしい暴力が、なぜ、映画『第一の敵』に描き出されている暴力と重なり合う部分を持つのかと、太田昌国さんに問いかけてみた。
 1980年にペルーで生まれるセンデロ・ルミノソ(直訳すると「光り輝くか細い道」)が活動の拠点としたのは、ペルーの真ん中の高原都市であり、先住民族が多く住むアヤクーチョ周辺の地域である。アヤクーチョは、歴史的に色々な記憶が刻み込まれている場所であって、シモン・ボリーバルによるスペイン占領軍との戦いがおこなわれた場所であり、なによりも、先住民族がスペイン占領軍に非常に粘り強い闘争を展開した場所として知られている。このセンデロ・ルミノソは、日本では、マスメディア等によって一貫して俗に「毛沢東主義のゲリラ」と呼ばれていた。これは、自分たちの要求を貫徹するのに、暴力の行使を厭わない、怯まないゲリラという意味、レッテルである。センデロ・ルミノソの組織原則は、テロルの恐怖によって人々を組織してゆくという性質のものであった。センデロ・ルミノソがある先住民族の村を占拠すると、武装宣伝というものをおこなった。すなわち、この村の中で君たちに最もあくどいことをしているのは誰かと問いただし、その人物を捕らえて公開処刑の処するというものである。最も抑圧されていた農民からすると、これまで選挙になると、都市部から来た人間が票をあてにして公約を繰り返してきたが、そのようなことが果たされた試しがなかった。貧しい農民からすると、日常的に非常に切実な要求がどのような形であれ、センデロ・ルミノソによって、目に見える具体的なものとしてかなえられるという事態が見られた。

 ●センデロ・ルミノソが社会的に力を得た背景
 「まだ、アンデス地域、特にペルーの場合には、資本主義的な搾取関係に入る以前の、前近代的な構造の中での剥き出しの抑圧なり搾取があるわけです。洗練されていない段階の搾取関係です。そうすると、農民が持っている牛を地主が売ってしまうとか、女性たちに暴行を加えるとか、そんなことが日常茶飯に起きて、それに対して、何らかの法的手段を込めて訴えるといった、そういうこともすべて奪われている1960年代の、70年代の社会的背景があるわけですから、彼らにとっての解放感、そういうものがある。ある朝起きてみたら、それがその日のうちに変わっていたという現実的な変革の可能性に賭けるという形で人々が組織され始める。」

 ●センデロ・ルミノソが持っていたもうひとつの背景
 「自分たちの村単位の経済生活というものを外部社会と切断して、自立経済を作ることが、その恐怖政治の問題とは別にですね、自立経済を作ることができないかという実験がおこなわれたのかもしれないという可能性はあると思うのです。」
 このように語って、太田昌国さんは、以降展開された会場との議論に先立つ話の締めくくりに、センデロ・ルミノソが持っていたもうひとつの背景を、カンボジアのポルポト政権の初期の段階でおこなわれようとしていたことから類推する話をしている。
 ポルポト政権が、やったことの結果をもたらした抑圧的な政権であることは否定できないとした上で、1950年代にパリで経済学を学んだ、ポルポト政権のキューサンファンの経済学的な論理を、今日の脈絡の中で次のように紹介している。
 「小さな国の経済というのは、今のような『グローバル化』という言葉が使われている段階ではありませんけども、革命が成就したって、独立したって、どうにもこうにも外部のより大きな経済によって攪乱され、その世界システムの中に一方的に組み入れられるだけである。旧植民地国が独立しても、経済的に今まで徹底的に支配してきた宗主国の経済の力によって攪乱されるだけである。自分たちの国の革命や独立を好ましいと思わない、古い秩序を守ろうとする圧倒的な世界経済の秩序の力によって包囲されるだけである。そのような世界システムに取り込まれない自立経済の方法はないのかということを少なくとも理論的に一生懸命やっていたのがキューサンファンたちの1950年代パリにおける留学経験の中での経済理論の探求だったんですね。」

 ●会場との議論を終えて
 「ウカマウを読み直すVol.1−『第一の敵』に見られるエスニシティーと暴力」という企画のチラシの裏は、次のような言葉で始まっている。
 「世界に蔓延する暴力!? 9・11以降、日常のレベルから「戦争」に至るまで、暴力があちこちにひどく蔓延していて、眼前にしているものが、どういう性質のものか、少なくとも自前で規定できるようにしておかなくてはと思われます。ボリビアの映画製作集団ウカマウによって1974年に作られた『第一の敵』もまた、南米のインディオスをめぐる、さまざまな形態の暴力が描き出されているが、そのシンプルなストーリーにあって、ウカマウの映像が持つ膨らみゆえに、今なお、さまざまな問題を提起する映画となっている。」
 このように、暴力について反省的に捉えなおすことを主眼にして企画してみたが、当時の時勢もあってか、加えられた暴力にやむなく抵抗するための暴力、すなわち「対抗暴力」への強い賛同が、会場との議論の中で予想以上に感じられ、このことを喜んでいいのか、どう判断していいのか、困惑したことを全般的な感想として付け加えておきます。